こねたりもんだりさすったり

何もできずにただあなたのそばにいるの!

地の星座に星がないという生まれ

占いで日銭を稼いでいた時期があった。

どういう占いをしていたか、とか、詳細は身バレが怖いので省くが、かなり本格的なことをしていた。
もともと出身は占いとはとおいとおい学校だったり、業界だったりしたのだが。
統計学の一種にしては面白いと思って近づいたらずぶずぶにはまっていた。

危うくスピリチュアルの世界にはまりかけたのと時期を同じくして配偶者に出会い、そこから抜けることはできた。
今は単なるシンクロニシティにしては面白いぞ、くらいのスタンスで眺めることが出来ている、と思いたい。
思いたい、と書いたのは、占いで使う生まれ図というものが、往々にして示唆に富みすぎている、などど思えてしょうがないからである。
眺めていてしばしば生まれ図に魂を引っ張られそうなときがあるのだ。
ちなみに占いの学校や教えの場では、しばしば王族(皇族含む)と犯罪者の生まれ図が学習教材として格好の餌食になる。

とゆーわけで、ここでは西洋占星術の生まれ図であるホロスコープに関する話をちこっと。

ホロスコープでは12星座を使う。よく雑誌の占いで見るあれである。12星座は4つの性質に分かれる。

火の星座ーおひつじ、しし、いて
地の星座ーおうし、おとめ、やぎ
風の星座ーふたご、てんびん、みずがめ
水の星座ーかに、さそり、うお

火は情熱、地は感覚、風は知識、水は感情を表す、とされている(ほかにもあるけれど)。
生まれたときに10この星
(太陽・月・水星・金星・火星・木星土星天王星海王星冥王星
が空の中でどの星座の近くにいたか、でその人の性質がきまる、とされる。

初めて占星術の講座に出席したとき、
あなた、お金の使い方に苦労してない?
と私は講師の先生に聞かれ、えっ、と困惑した。

そのとおりだったりする。
先生曰く、水の星座と火の星座にほとんどの星が集まり、地の星座には一個もないことが印象的だ、と私のホロスコープを見ながら。 (勉強をすすめるにつれ、私がお金に苦労しているのは他の要因もあるだろうということもあきらかになるのだけど)

そのときに先生がおっしゃった
「感情という水を情熱の炎でガンガン沸かして進む、蒸気機関車のようなひと」
という表現は、まさに私のことだ、と未だに感じている。

占星術はまず自分を掘り下げて勉強する。その次は家族である。
家族の星を研究の対象としはじめて、なんとなく私の家族の不和の原因がわかった。

私と同じく、母もまた、地の星座に星が一つもない。
対して、父と妹は、地の星座のもとに生まれついたような人たちだった。

ちなみに、地の星座のもとに生まれついたひととはどんな感じかというと。 私はその例として、錦織圭くんを推したい。星が6つもやぎ座に座している。 練習練習とにかく練習で、自己の力のみを頼りにして身を立てた、彼らしい生まれ図だ。

私は、努力なんかしてもいつか死ぬんだから意味なくない?
人生博打!!
…と母譲りの考えを持つ人間であった。だいぶ修正されたが。
私を修正してくれたのは、おとめ座に4つ星がある夫である。環境で人間って変わることを実感している昨今であります。

翻って。
母と暮らしていたあの頃は、とにかくふたりともお金に対してずぶずぶであった。
家にお金を入れるなら、現金で入れるなんてナンセンス。
母はそう言って、各種通信費と通販サイトの年会費は私持ちにしてくれといった。
そしてムスメのカネで一日2時間以上長電話をするというからくりであるが、私は母に迷惑をかけている以上、能もなにもないムスメに生まれてしまった以上、文句は決して言ってはいけない、ときつく自分を戒めていた。

あの頃の自分を、いまなら「ハイハイ、共依存症共依存症」と断罪しておしまいである。家族も形が崩れてしまえば、宗教とそんなに変わらないのだ。

あの頃の私は、自分のだらしなさや、家から逃げられない自分の不甲斐なさの根源を、占いの中に求めていたのだろう。
現実と立ち向かえない自分の存在意義は占いの中にも見いだせず、ただ堕落していくばかりだったのだが。
占いは、ざんねんながら現実逃避のためのギミックとしかなり得なかったのである。
もし私が再度占いの世界に脚を突っ込むときには、自己発展のためのツールとして活かす方法を考えたいが、占いの世界はあまりに怖い事が多いことも知ってしまった。あーあ。
アリとキリギリスの寓話はなんと正しいことか。

もとからひねくれ

日曜日の朝、旦那より早く起きてなんとなーくTwitterを立ち上げた。 したら、私がフォローしてるひとのおおよそ4割くらいが、一様に同じ政治的なハッシュタグをつぶやいている。

…もしかして、これ、ドッキリ??

とゆー昭和生まれ的な観念に最初は囚われた。 そしてタイムラインを読み進むにつれ、だんだんと怖くなった。

当該タグの意味合いはあえて議論しない。 ただ、怖かったのは、

大勢のひとが一斉に同じことを言い出す

という現象にたいして、なんの恐れや疑念も持つことなく、バトンを受け渡すようにさらに同じことをつぶやくひとがこんなにも多い、という事実。
なんの疑いも裏取りもなく、みんながいうからわたしも! …と同じ方向に流されるひとがなんでこんなにいるのか。

影響力の大きいひとが、
世の中不景気だ
と言ったなら、直ぐに恐慌が襲ってきそう。
そして影響力の大きいひとが、
世の中ハッピー
と言ったなら、直ぐに世の中明るくもなるのだろう。

自らの言葉くらい、自分自身で発していきたい。
そう願うひとは少なくないと思うが、それが出来ているひとは、案外、ほとんどいないのかもしれない。
そんなことを考える私はひねくれものだと思う。それでもいい。だから嫌われているんだろうなあ。

幸せって何だっけなんだっけ

明石家さんまがでていたポン酢かなにかのCMで

♪幸せ〜って何だっけなんだっけ
 ポン酢しょうゆ(うろおぼえ)のあるウチさ〜♪

という歌があった。
その歌を私は軽く替え歌にし

♪幸せ〜って何だっけなんだっけ
 どうせぼくらにゃ縁がない〜♪

と歌って担任にひどく殴られた。

その頃から幸せって何だっけ、と考えている気がする。
当然のごとく答えなんか出ていない。

幸せとは。
不幸せならかんたんにいくらでも定義づける事ができるけれど。
不幸せとは、例えば、土曜日午後の通学路の帰り道。
お腹が空いた状態で、クラスメイトのランドセルを5、6こ背負わされ、じゃんけんに負け続けて、延々と壊れたモビルスーツよろしく通学路をフラフラと歩く。

「まあ、可愛らしいわねえ☆ 子供はこうでなきゃ!」

無責任な声をかけるババアがいる。死ねよ。

不幸せとは、例えば、前述の担任と悉く反りが合わないこと。
奴は巨人軍が負けた翌朝に、私をいびるのをストレス発散の手段としていたが、そのことを他の教諭に告げると

「まあ、あの先生がそんなことするわけがないでしょ?! 嘘つきにもほどがあるわ」

とくに女教師には全く信じてもらえない。故に私はイケメンとゆー人種をはなから疑っている。
そのせいか私の配偶者はゴツく筋肉質である。

似たような例としては、私の母親も外面と家での姿の乖離がひどい人間だったことを思い出す。
彼女はキレると家中を破壊するか、包丁を投げるか、実家に戻るか、とゆーあまり落ち着きのない人間だった。
ただしそのことを思い切ってよそのひとに話しても、

「まあ、おかあさんがそんなことするわけがないでしょ?! 嘘つきにもほどがあるわ」

とこれまた全く信じてもらえない。

といった具合だったので、15を過ぎたくらいから、安寧を手に入れれば幸せになれる、とゆー妄想に取り憑かれていた気がする。
ただ日常生活のなかでそれを実現する手段は皆目不明だった。
不明なゆえ、あちこち彷徨い歩くような人生を送った。
精神をやられ、肉体をやられ、昔だったら中年とされる歳で配偶者と出会ったときには、すでに肉体精神ともにガタがひどかった。

いずれ書こうと思うが、中年結婚(ちなみに双方初婚)は廻りの人間をリトマス試験紙にかけるようなものだった。
ほんとうに私のことを考えているひとと、他人をネタ元として考える人間が面白いほど分別された。
結果として私の人間関係は著しく整理されてしまった。
そうして私は安寧をどうにか手に入れた。

他人の戯言(いまおもえば)に対して、身を張って応じていた私はなんだったのだろうか。
そもそも、戯言を戯言と疑うことすらしなかった私は大馬鹿である。
このことも改めて書こう。

安寧は手に入った。しかしその代償として、職を失った。
そして、長い安寧は私のような小人にとって、身体の中に澱のように積み重なって、淀んでいく。
要は
「おカネそろそろヤバい。働かないと死んでしまう」
なのであるが、しんがたーコロナウイルスがーにっくいー♪(打首獄門同好会

きょうも履歴書を書いた。ちなみに10年ぶりくらいの手書き履歴書であった。
公共機関の書類から和暦を撲滅させたい。手が死んだ。
死んだ手をひらひらさせて、私は子供の頃の冒頭の明石家さんまの歌を思い出していた。

いまの私はその幸せとやらを手に入れるために、なんでもしてやろう。

逢いたい人に遇えるはずもない

なぜなら逢いたい人にはもう愛想をつかされているからです。たぶん。

はじめまして、外道嫁です。

 

自己紹介とやらを書けとシステムにせかされています。

とりあえず:

 

なまえ:外道嫁(げどうよめ)

学歴:昭和XX年 田園都市幼稚園卒園

   平成XX年 関東自動車学校溝の口校卒業

   現在に至る

 

とゆー感じの女です。

 

翻って。

逢いたい人に遇えません。

なぜなら、最初にも書きましたが、逢いたい人にはとっくのとうに愛想をつかされているからです。

だから追うことはしません。時間と体力とカネを使うばかりだし。

 

しかしそれ以前に、私はカネがどーとか論じるには多分能わないでしょう。

失業していますので。このコロナの世の中なのに。ああ。

 

今年1月から転職活動に本腰を入れ始めました。

そしたら、ごらんの有様だよ!!

とどこかのエロゲーのセリフ回しをそのまま引用。プレイしたことはありません。

 

ともあれ。

私はいま、逢いたい人に遇えないという事象に伴うルサンチマンを論じたいだけなのに、カネの不足が邪魔をします。

どんな論考を俎上に乗せるにあたっても、論者がカネがたくさんある人でないと意味なくない? と考えることが昨今多くなりました。

Maslowのピラミッドが頭をよぎります。アレは案外正しいです。

 

とりとめがなくなりました。

最後に、このブログを始めるにあたり意気込みを書け、ともシステムにせかされています。

炎上しないようにします。よろしくお願いいたします。いじょう。